森 啓輔氏 展覧会評_複号の彫刻家たち展2019

彫刻は汎生命的に絡まり合う――「± 複号の彫刻家たち展」
                          森 啓輔(千葉市美術館学芸員)

回帰を果たした象徴空間
 東京・目黒の現代彫刻美術館で、「± 複号の彫刻家たち展」(以下、複号の彫刻家たち展)が開催された(2019年6月23日終了)。馬喰坂の急な坂道を登り、住宅街の一角に位置する同館は、野外にも常設展示を有しており、来館者は国内作家を中心とした20世紀後半の彫刻作品の数々を目にしながら、会場となる館内部へ足を踏み入れることとなる。回数こそ付されていないが、本展は2017年秋のみるめgallery(東京・調布)、2018年秋の大雅堂(京都)において、同タイトルのグループ展が先行して開催されている。つまり、複号の彫刻家たち展は、シリーズ企画の第3回目を今回迎えたこととなるわけだ。さらに遡ること4年前、現代彫刻美術館学芸員の阿部昌義と本展企画者の松田重仁の間で交わされた会話が、本シリーズの出発点であったことを知る者からすれば、およそ3年の長期にわたり、場所を変えながら開催されてきた本展は、大きく一回りをして、今まさに出発点である同館への回帰を果たしたといえるだろう。「+(足す、加える)」と「−(減らす、削る)」の意味を込め、松田が命名した「複号」というテーマを実証していく現代彫刻展として、3回の展覧会を捉えるならば、それら全てに携わった松田と、前回と今回に参加している下山直紀を含め、計11名の作家が取り上げられたこととなり、素材、技法の多様さ(木彫、石彫、鍛金、陶彫、漆芸など)や、世代の広がり(1950年から92年生まれまで)といった特徴は、本展の生命線であることがわかる。  一方で、これまでのグループ展と今回では、作家構成に大きな違いが認められる。本展には、松田より長いキャリアを持つ安藤泉が初めて参加しており、また大森暁生、下山、林茂樹の3者が、みな70年代前半生まれと共通した世代であることだ。素材、技法と世代の広がりを、私たちに見せてきた複号の彫刻家たち展は、着地点において、主導的な役割を負ってきた松田の彫刻観を共有する作家たちが集い、核となるテーマ「複号」について、集約的な実証が試みられようとしたという推測は、それほど穿った見方ではないだろう。例えば、安藤は70年代後半から、金属による動物彫刻で脚光を浴びてきた鍛金彫刻家である。国内の経済活況に並走し、野外彫刻が隆盛をみせた一時代の社会状況とその空気感を、安藤は松田と共有する作家の1人であるはずだ。このような密な関係性が、作品間で同時多発的に現れる点において、本展とは、多様な素材、技法と世代を保持しながら、複数の関係の糸を紡ぎ、解きほぐした結果かたちづくられようとする「形式(フォーム)」そのものだ(このことは、まさに「複号」を象徴してはいないだろうか)。正六角柱を中心に、6つの同形状の部屋が囲むよう設計された展示室は、本展の意図を反映するべく年月をかけて準備された、格好の象徴空間であったことだろう。


生態系と変成―安藤泉・松田重仁
 ハニカム構造と一般的には呼ばれる、蜂の巣のような六角形が重なる特殊な会場が、浄土宗寺院に隣接する美術館の性質ゆえに、仏教の説く「六道、六界」に由来しているのか定かではない。ただし、展示された5名の作品は、シンメトリーに近い安定的な構造体である空間に比して、むしろ動的であり、前回にも増して彫刻を再考しようとする意志に満ち溢れていた。松田の作品の代名詞である植物や、安藤、大森、下山らによる動物や昆虫、あるいは林の人物といったモチーフに、動的な性質は直接的に起因するわけだが、広く捉えるならば、自然物である再現性に富むそれら対象には、それぞれに見過ごすことができない造形上の変成が施されている。例えば、先の安藤が純銅を叩き、自在に変形させる鍛金の技法で生み出した動物たち。銀箔に覆われたシマウマは、胴部が極端に短い。さらに、ペンギンは目の前の誰かと対話するように、優しげな視線でやや上方に嘴を広げるのであり、輪へと跳躍するサーカスの団員と思しき人物を見つめ、厳かに鎮座する虎は、人間との転倒した関係によって極端に大きい。時に愛らしく、ユーモアな肢体をみせる安藤の動物たちに現れているのは、外部との関係による変質である。 1962年に出版された、生物学者レイチェル・カーソンの『沈黙の春』を引くまでもなく、20世紀後半以降の人間社会は、人間が及ぼしてきた自然環境の甚大な損耗と生態系の急激な変容の上に、かろうじて成り立っている。安藤の動物たちもまた、人間社会という外部との密接な関係付け(おそらくそこには、公園や街中といった私たちの生活圏に設置される野外彫刻の場所性の問題も含まれている)こそが、フォルムの決定に作用していないだろうか。動物と植物の違いはありながらも、松田が木と真鍮を組み合わせ表現する花や、背後に複数の穴が施された水面では、その箔の輝きの移り変わりと、裏側部分の色彩の反射といった知覚上の効果に、展示環境という外部の要請が見出される。鑑賞者(人間)と彫刻作品(動物・植物)との間に生まれる相互作用、そしてその結果もたらされるフォルムの変成において、安藤と松田の2者には共通点が指摘できるだろう。

安藤 泉
「G-Proportion」

松田 重仁
「黄金の芽」

空間の横断、存在の超出―大森暁生・下山直紀・林茂樹
 大森、下山、林らの本展での作品は、先行世代である安藤と松田の相同性を照射しつつ、彼らの独自性もまた主張している。T字を描くよう三角形を形作る台座の上に、3体の陶作品を配置した林は、一見すると正六角柱の展示スペース内部での完結が目指されていたようにみえる。しかし、陶彫のプロセスが孕む複数性を発露しつつ、能面や迦楼羅といった日本、ひいてはアジアの風土で醸成された文化、宗教観を、近未来的装甲で未成熟な体躯に覆うハイブリットな幼児や少年像は、人間と動物(鳥や兎)の合体や、さらには伝統に対峙する姿勢から、他の作品理解にも有益な示唆を与えているだろう。林の作品を介すことで、大森に認められるのは、頭頂部へと歪曲しながら伸びていく牙から、「命の残りを見つめながら生きる」と作家が評するバビルサをモチーフとした、動物の牙と植物の萌芽が混成した有機的なフォルムである。あるいは、煌びやかな装飾具を耳に付け、不敵な表情を浮かべる下山の巨大な猿の立像。そこには、鎖国体制の崩壊という近代的な西洋の表象システムが導入される時代背景にあって、伝統的な木彫の技術との葛藤と綜合が模索された高村光雲の《老猿》との連関を思わせずにはおかない。大森、下山らとはおそらく、日本で木彫がたどってきた複雑な歴史を、日々の研鑽と労苦の果てに自ら身体化していった現代の彫刻家であるのだろう。  彼らをはじめ、複号の彫刻家たち展に選ばれた次代の彫刻家たちが、作品表面の彫り跡の鋭利さや処理の卓抜さにみられる高度な技術を駆使し現そうとするものは、動物たちの再現性に依拠しながら、むしろそれを超出する聖性、霊性であったはずだ。経済発展の恩恵を受け、多文化主義の中で感性を育んだ作家たちにとって、神仏や神話に描かれた空想の動物といった古来の宗教的図像と、サブカルチャーに代表される現代のメディアに溢れるアノニマスで雑多なイメージは、ヒエラルキーの解体でもって距離と時間を喪失し、等価な対象として受容されていったに違いない。しかし、本展において特にそれら超越的な動物たちは、鏡面反射を元に半身が壁面に仮設され、飛翔する大森の鳥や昆虫の水平方向への動勢、あるいは、建築物との相補的な関係を結ぶ欄間彫刻を想起させるとともに、下山による柱に一体化した狼が見つめる天空への上昇性にみられるように、空間を縦横無尽に横断していく特徴を持っていた。大森は、作品の表面に漆を塗る行為に、作家の主張を柔らかく包み隠す「コーティング」の機能を見出しているが、そこに内在しているのは、制作過程で近づいた対象を、遠い彼方へ追いやろうとする志向性といえるだろう。その時、彼らの彫刻は、作家の手の痕跡を確かに残しながらも、空間へと拡散し、誰にも届くことのない存在の彼方へ遠ざかろうとする。

大森暁生
「死に生ける獣 - Babirusa -」

下山 直紀
「あらかじめ膳立てのできていた裏切りだという暗示」

林 茂樹
「deva device "TC-Z"」

結びにかえて―彫刻、あるいは存在の彼岸
 これまで回を重ね、現代における彫刻の可能性を問い続けてきた複号の彫刻家たち展。そこでの動植物や神仏、人物像には、空間を作品にとって不可避の要素として取り込んできた彫刻史を反芻するかのように、鑑賞者との意思疎通を目論む擬人化と象徴化が、意識的になされている。一方でそれらはまた、柱と狼による《serendipity》について、制作の途中に体験した東日本大震災を作品に重要なものとして位置付け、下山が語ったごとく、人知の及ばぬ自然現象を作品の世界観に反映させる特徴も散見された。このことは、人間を圧倒的に超出する存在が、彫刻に仮託された事実を指し示すのであり、横溢するようなこの他者性とは、彫刻の内で脈々と潜勢してきた根源的本質とすらいえる。最後に、本シリーズについて松田の企画意図からずれることを承知の上で述べるならば、「複号」とは、それが彫刻の制作原理と密接に結び付いたものだとしても、一人一人の彫刻に対する純粋な思い、その内なる衝動にこそ宿るものだったのではないだろうか。  「複号の彫刻家」とはつまるところ、物理的に否応なく立ち現れ、眼前に存在してしまう彫刻に対し、木や金属、土や動物の毛など多様な素材に触れ、それらが先人たちによって表現媒体に用いられてきた長く太い血脈を辿りながら、作家と、対象となる自然物の過去と未来が交差する場所に、新たなかたちを生み出すことに自らの運命を賭した者たちのことなのだ。作家同士の表現に、さまざまな共通性と差異を浮き彫りにしてきた本展での広がりは、「汎生命的」ともいえる数々の生命の混淆をこそ、私たちに見せてくれたことだろう。まるで、台座に置かれた小さな石の上で、植物同士が生命の絡まり合いを示していた松田の本展での出品作品《生命の光》が象徴しているように。本展において、世代を超えて織りなした存在の彼岸としての彫刻の瞬きが、さらにその先へ継承され、輝きそのものが失われないことを願ってやまない。

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掲載写真撮影 : 土田 祐介
©️ 複号の彫刻家たち展2019

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